ここ掘れ、わんわん

ヨーガ修行を始めて、次第に自分の心の汚れに敏感になってきた。



花咲か爺さんのお話に出てくる底意地の悪いお爺さん。
ぽちが「ここ掘れ、わんわん」と金貨のありかを教えて隣のおじいさんが金持ちになったと聞くと、意地悪爺さんは、ぽちを無理やり引っ張って行く。
吠えたところを掘り返すと、何とヘビやムカデやらゴミやら、汚いものがどっさり出てきた・・・・というのがありますが、そんな感じ。


自分の中の汚れは見たくない、表面上はきれいなふりをして埋めておきたいものですが、ここをしっかりやらないといけません。
怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、執着、貪り、怠惰・・・つぶりたい目を無理矢理開いて浄化に努めるのです・・・。



すると、近頃何だかなあ、だんだん人の心の汚れにまで敏感になってしまった。
これはいいのか悪いのかわからない。


私を含めたおおかたの人は自分を善良だと思っているし、自分では認めたくないから汚れとなって残っているのだろう。
「ここがあなたがつっかかっている問題点だと思うけど・・・」と説明してわかってもらいたいが、あえて見たくないものを受容できる勇者はなかなか少ない。
第一、こちらが傷ついてしまうこともある。
「この人は私を見て話をしているのだけど、決して私を見てはいないのだ」とか。
「心のなさ」や「エゴ」がすけすけに見える。
今までやり過ごせてきたことが、相手がスケルトンみたいになっているのだから、やり過ごすのがつらくなる。



職人さんが精魂こめて作ったものとか、家族のためにと一生懸命作られた手料理をふだんから食べていると、いいかげんな気持ちで作られたものが耐えられなくなる。
箸をつける前に「わかる」ようになってしまう。
ジャンクフードやチェーン店居酒屋やファミレスなんて無理なからだになってしまう。
それときっと同じだ。


それは、今までの私も同じように、たとえばの話、ジャンクフードを地べたに座ってすすっていても平気でいられるように、えらく鈍感で鈍重あったということさ。
おそらく、私は自分が思う何倍以上にも人を無神経な言葉や行動で傷つけ嫌な思いをさせてきた。
「この世の中、渡っていくにはこれくらいのことは平気じゃなくちゃね」という間違った思い込みもあったと思う。
これまでの自分を思うと本気で背筋が寒くなる。


今の社会は鈍感じゃないと生き難い場所。
鈍感な人たちが大手を振って歩いているところ。
かえって学校へ行けなかったり社会のシステムについていけなくて心病む人の方が正常なのだ。


だから、私は、息を止めて、だだだだっと走って、走って、走って。
できる限り、そこから遠いところに在りたい。