悲しかったこと

朝、歯が少し痛んだ。
やり過ごせそうでもあったが、どうせひどくなるなら早いうちに手を打とう、と予約を取って歯医者へ出掛けた。

そこで「痛む箇所はまだ手を下すに至っていないが、噛み合わせがよくない」と言われ、調整のために延々と歯を削られた。
顔にタオルをかぶせられて、固定され、痛みはないが頭蓋骨にはあのいやな音と削る振動ががんがんと伝わってくる。

時間が経つうち、じっとり背中に汗が出て、心臓が苦しくなり始めた。ヤバい、だんだん呼吸も苦しくなってきた。
パニック発作と言われているやつ。
歯医者でなったことは今までないんだけどなあ。
意識を頭上に持っていったり、へその下(丹田)に持っていったり、何とか気を紛らわそうとするけど、大音量の間断ない攻撃に今にも「やめてくれ〜!」と暴れだしそうな心地になってくる。
限界を越えそうで耐える自信がなくなり、とうとう、手を挙げて治療をストップしてもらいました。

そしてら何と、お医者さんは無言でほかの患者さんのところへ行って治療を始めてしまった。
むっとして時間がもったいないと言わんばかりの態度に驚いた。

私は恐怖から逃れ、ぜえぜえしながらうがいをして気を落ち着ける。
てっきり、「どうしたんですか?」って聞いてくれるかなと思った。
「時々ちょこっと休みをいれてやってもらえたら大丈夫だと思います・・」と言おうと思ったけど、そんなことどうでもいいみたい。

お医者さんは戻ってくるとひとこと「だいじょうぶですか」とだけいうと瞬間椅子を倒してまた黙々と治療を始めた。
私は「すみません」と謝った。(泣)

以前通っていた歯医者さんは、作業が雑だった。
人の顔の上でも平気で作業するし、器具を横になっている人のからだに落っことしたり。
「ちぇっ」みたいなひとりごとを言うのも気になった。
人を人と思っていない、道具のように扱われているような気持ちになった。
機械をいじるように、はい、次、って感じ。
口を開けておまかせするしかないし、主導権はお医者さんにあり、こちらの立場はただでさえ弱い。

今の歯医者さんに変えたとき、定期健診くらいだったが、説明も丁寧で、物腰も優しいから、いいかなと思ったのだ。
でも、その優しさは、ただの表面的な「営業的優しさ」だったんだなあ、とつくづく思った。
やっぱりこの歯医者さんも考えていることは効率良く短時間で患者をこなすことだけ。
優しく話をするのも、マナーとしてと、儲けにつながるからだけで・・・心からではないんだな。
もし内心苛立ちに満ちてながら表面だけ優しい言葉を話しているとしたら・・・・それこそ非常に薄ら寒いことだ。

私は歯医者でもパニックになったことでの敗北感と自信喪失で、よろよろと生きた心地もせず自転車をこいで帰った。

帰ってからパニック発作について、少し調べた。
「根性がない」「気のせい」みたいな思われ方をするけど、なるほうは真剣なのだ。
十代の頃、電車でそうなって、オートバイで学校へ通うようになったけど、当時は病気って認識も情報もなかった。
数年前に久しぶりに出てから、時々なる。
狭い、人がたくさんいる、息苦しい、暗い、蒸し暑い、顔が塞がれる、体が固定される、そんな状況に弱いみたい。
姉も最近、同じパニっ子だとわかったが、調査によると体質遺伝的要素も大きそうだ。
不安を起こす脳内物質の何かの偏りが原因とも言われている、発生要因も二酸化炭素や乳酸が挙げられている。
二酸化炭素センサーが過敏すぎて、狭く密閉した場所にたくさん人がいるとキケンと察知してしまうというのだ。
今回も顔にタオルがまずかったのかも。
たとえば、乗っている飛行機が墜落するとか、乗っている船が沈む、となったら誰でも心臓が飛び出しパニックになって叫び出すだろうけど、そうじゃない状況で「危険!」と判断してしまうのだ。
薬で治るそうなんだが。

電車を一駅ごとに降りなければならないとか、外出できないとか、そこまでいかないし、そのうち有効な解決方法を自分であみ出せるのではないかと思っているけどさ。

一日の終わりにお風呂に入りながら、ぼんやり考えていたら「実は私は傷ついている」ということにはっと気がついた。
パニック自体はどうでもいいけど、どうでもいいことだと無視された扱いがショックだったみたい。

そこで、その悲しみとさよならする簡単なイメージをした。
汚れも悲しみも、要らないものとはその日のうちに決別したほうがいい。
私は受容性の象徴として愛しき自分のお母さんを頭の中に登場させた。
お母さんに「今日はこうだったんだよ〜怖かったしホントは悲しかった(涙)」と話しました。
小さい頃、夜中怖い夢を見て目覚めた時、泣きながら起きていって寝ているお母さんの布団に入れてもらうかのような。
お母さんは「あらら、それは怖かったね〜かわいそうだったねえ」ってだけ言う。
慈しみのまなこで。
それだけでもうだいじょうぶだ、って思えるものなのだ。

理性と道理で人を諭してくれるお父さんと、自分の気持ちを受け入れてくれるお母さん。
両方必要なんだな。自分の中にも。

近所の田んぼの実りです。