すっぽんの悲しみ

昨日、放生(ほうじょう)に参加してきました。
つい最近まで私は「放生」という言葉も行いも知りませんでした。

放生(ほうじょう)はその原型は殺生を戒めた原始仏教にまで遡る事ができるそうです。
具体的には捕らわれの生類を放して逃がして(生かして)あげることです。
捕えられた生類に法を修して山野、池水に放つ慈悲行です。

チベット仏教と法友との貴重なご縁で今回ぜひ参加してみたいと思ったのです。

みんなで志を出し合って、囚われの身の生類たちを購入し、川へ行ってお祈りしながら放ちます。
今回放つ仲間は食用のすっぽん、かえる、しじみたちでした。

正直な話、この40年以上の人生で、「忘れられない美味しいものは何であったか?」と聞かれたら私は迷いなく「すっぽんのスープ!」と答えたでしょう。
それは料理人が体調の悪い方がいたことに気遣って作られた数匹のすっぽんの濃縮スープでした。
「こんなおいしいものがあるのか!!」と衝撃を受け、舞い上がり、その時、殺害されスープにされたすっぽんたちの事情などには考えが及びもしませんでした。
恐れおののくまわりを尻目に、生き血も肝も平気でぐびぐびしていた私。
おそらく、今回の放生に参加された十数人の中で、私は「すっぽん殺生度ナンバーワン!」だったと思われます。
しかし因果は巡る・・・・。

すっぽんを網から出して、川に放そうとしたとき、持つ場所を注意されたにもかかわらず、鋭い爪で傷を受けてしまい、さらにびびった私は変な場所を掴んでしまい、なんとすっぽんに吸い付かれてしまったのです!!!まさか人生にこんなできごとが起ころうとは・・・。
幸いにもすぐに離してくれたので、少々の流血で終わりました。

他の命に対して傲慢だった私は一撃をくらい、すっかり意気消沈してしまいました。
確かに完全菜食ではありませんが、お肉を食べることは自然となくなってきていました。
感謝の気持ちでいただくようにもなってきました。
でも、決定的に相手の痛みや苦しみを想像することは避けていたのです。

かえるさんたちは網にぎゅうぎゅう詰められています。
人間でいうと、まさに満員の通勤ラッシュ電車に詰め込まれた状態で殺されるまでの期間ずっと過ごすのです。
もちろん食事もなくお腹もぺこぺこでしょう。
私は先週東京で一週間講座があったため毎朝ぎゅうぎゅう電車に乗らなければなりませんでしたが、一刻も早くこの状態から解き放たれたい必死な思いで車中過ごしていました。
同じ生き物としてその状態がつらいということは容易に想像できます。

かえるさんがみんなの手からやさしく放たれ、川の中を「すいいいっ〜」とのびのび泳いでいく様子は、「ああ、よかったねー!ばんざい!」という喜びでいっぱいになります。

確かに命や食を考え始めると気の遠くなるような多くの要素を考慮しなければなりません。
たった少しの動物達を放したからといって、どうなのか?自己満足じゃないのか?生態系の問題はどうなのか?
もっともなご意見です。
ただ、私が手にしたのはすっぽんの悲しみでした。
すべてのものが同等の命を生きているという事実でした。


また、かえるがすいすい泳ぐ姿は「本来の自分に戻る」というメッセージもくれました。
川の流れ、本来の流れに戻って生きる。
Go With The Flow 「流れのままに生きる」というのは、何もしないわけではなくて。
今この時にベストを尽くしたらあとは受け入れること。

体験する、感じることは一番の学びですね!