その2【効率化】 本当のことを知らされなかった私から

現在、私が参加しているヨガクラスでは、のんびりゆったり自分の身体と向き合っていきます。


正直、最初は面食らいました。
足首を回したり、指を一本一本曲げたり、2時間はかけてゆっくりゆっくりやるので、ばんばん激しいアーサナにも挑戦してみたい自分にはまどろっこしい。
「うわ〜これはお年寄り向けかな〜私には合わないんじゃないのかな?」
しかし、回数を重ねて参加するにつれ、「自分の身体に意識を向けて、ひとつひとつ解きほぐすことの大切さ」がしみじみ体感できるようになってきたのです。
ふだん、どんなに体をないがしろにしているか。
いかに体そして心にも無駄な力が入っているか。
「ゆっくり中心に戻る」
それをやった上で入る瞑想の質が向上することはうなづけることです。



昨年からヨガを教えたい!という思いが高まり、その元オウム真理教の先生がやっていた教室の「通常コース」から「指導者コース」に移り、数ヶ月通っていたのだが、私はだんだん行き詰まりを感じるようになっていた。
今考えると、参加者にしても内容にしてもより「オウム色」が強まる指導者コースに違和感を感じ始めるのも無理はなかったのだが、修行一筋の先生への尊敬や信頼もあったので、「私がまだまだ未熟なのだ」と思っていた。
そこへご縁があって別の先生を紹介され、驚くような安いお月謝で参加してみたのだった。
その時の瞑想は、神秘体験とかびっくりするようなものではなかったが、とにかく初めて感じる最上の至福感で、じっくり心底くつろいだ平和な心地を堪能したのだった。
瞑想が苦手だった私が「これが何時間でも続いて構わない」と思えた。
私は「これこそ、ヨガの境地だ!」と心からの自信と確信を持った。
オウム真理教で唱えたらしい「修行するぞ、修行するぞ」や「解脱するぞ、解脱するぞ」という強迫観念からは、遠くかけ離れたものだ。



ふと、オウム真理教が重視するのは「効率」かな、と思った。
「修行の効率」
まず教えもヨガや仏教など、いいとこ取りした様々な教義の組み合わせだ。
「まず修行、まず解脱!」といった考えも、そもそもは「衆生を救い解脱に導くにはまず自分が解脱しなければならない、そのためにはまず解脱だ!」という純粋なところからの出発なのだろうけど、残念ながらそのためには目の前の肝心なことや周囲とのバランスを無視してでも!といったあせりや力みを感じる。
無理な修行で人が亡くなっているのは悲しい事実だ。



現代社会自体が、「効率化」を目的としている。
企業は偽装をしてでも効率良く利益を上げようとし、学生は効率よく解答を書き込み受験にパスする練習をする。
メールを開けば、お手軽気軽な出会い系の迷惑メール。
「効率よく、お金が儲かる、容貌がよくなる、異性とSEXできる、有名になれる」
そんな薄ら寒い宣伝がどうしても目についてしまう。



効率を重視する余り、地球までも壊し始めてしまった人類。
今、全てを失うような結果になりかねないことに、気づき始めている。
冷凍餃子の事件も「効率化」、面倒な過程を安価でポイっと他人に任せることが平気だから・・・・。
きっとその警鐘だと思う。



インスタントに得られるものは所詮インスタントなものだ。
ひとつひとつ地味だけれど時間をかけて丁寧に積み重ねるものに勝るものはないのだ、と体感しました。
「地味」「こつこつ」「積み重ね」って私が大きらいだったキーワードです(笑)

「急げ、急げ」「前へ前へ」「もっと、もっと」
そんな風に自分も知らず知らずのうちになっていたのだ!

「戻ろう、戻ろう!」と思います。